11月17(日)~18日(月) 慰霊

晴れ・曇り

慰霊
18日11時新潟空港発の飛行機で『新潟県戦没者慰霊碑「新潟の日」慰霊祭』に参列の為沖縄那覇空港に向けて出発。

14時05分予定通り那覇空港に到着。新潟の気温13度から那覇は27度と一気に夏に逆戻りと覚悟していましたが、時折陽は射すものの曇り空で汗ばむほどでは無く助かりました。

空港からは久しぶりの沖縄でもあり、始めて乗車のモノレール(ゆいレール)で移動。

最前列に座り電車でGO!状態

時間もあり、先般火災に遭った首里城の様子を見に行ったら、同じような考えなのか予想以上に多くの観光客?がいましたが立ち入りが制限されており、被災した建物は遠くからしか見えませんでした。

無事でよかった守礼の門

立ち入りはここまで、遠くに臨む被災建造物

19日10時、慰霊祭の行われる糸満市摩文仁平和記念公園内の新潟の塔の前で、知事代理の藤山福祉保健部長を始め護国神社齋藤宮司さんや新潟の塔奉賛会の慰霊祭参加者と合流し、自分を含めて総勢21名で慰霊祭を執り行いました。

平和記念公園は先の大戦での国内最大の激戦地で沖縄戦終焉の地と言われる摩文仁の丘に、全国各府県の慰霊碑沖縄県平和祈念資料館沖縄平和祈念堂平和の礎などの施設が、陸域3127ha、海域1932haと広大な敷地に点在しています。

左遠くに資料館

公園内の移動はこれで(ゴルフ場の電動カートの改良型?)

地図入れの碑文、材質は腐食の激しく文字が判別出来なくなった銅板から判別出来なくなった平成27年に燕製のチタン板に。

併せて同年に建立の由来を刻んだ石碑も

慰霊祭直前の祭壇

断崖絶壁の近くに

慰霊の言葉を代読

慰霊祭終了後の記念写真

子の慰霊碑は、新潟県出身で先の大戦における沖縄戦没者1117名と南畝署地域戦没者40843名の41960名を祀る都道府県別慰霊碑の一つで、建立は昭和50年12月と全国で最も遅く建てられました。

それは新潟県は地方都市ながら長岡空襲など県内でも戦争被害が多かったこともあり、本土復帰前の沖縄に慰霊碑を建立しても維持管理が困難だとされ、消極的だったと言われています。

その為新潟県護国神社内に昭和43年平和の礎の碑を建立し、新潟県戦没者を祀ることになり、沖縄での慰霊碑建立は無いものとなりました。

しかし、沖縄が本土に復帰後は新潟からの観光客も増え、また慰霊碑が無いのは新潟県のみとなったことから、慰霊塔建立に向けての動きが始まり、昭和50年新潟県議会議長を会長とする「沖縄に新潟県の慰霊塔を立てる会」が設立され、名称を「新潟の塔」とすることなどが決定されました。

早速県民への募金活動が始まり、県も建立費の一部を補助する事となり、昭和51年竣工式が執り行われ、以後、毎年11月に慰霊祭が開催されています。

尚慰霊の塔はコメの形を現わしているそうです。

慰霊最終後は那覇空港発14時30分の飛行機で帰宅の途に就きましたが、新潟の温かいことにはビックリやらうれしいやら。長旅でしたが新たな歴史を学ぶ良い機会でした。